小学生の頃、南極物語という映画が流行りました(年齢がバレますね)。
南極の昭和基地に人間の都合で置き去りにされてしまった樺太犬15匹が次々と倒れて行く、1年後に訪れた隊員は奇跡的に生き残っていた2匹の犬(タロとジロ)と再会する、という超感動大作で、大ヒットしたものです。
鎖を外して逃げ出した犬達が、氷の海に落ちたり、アザラシと戦ったり、シャチに襲われたりと、まあ愛犬家には衝撃的な場面が満載の映画ですが、南極の自然の恐ろしさと犬達の本能と生命力の強さ、人間の身勝手さ、そしてそれが実話を元にしているというリアリティが強く心に残ったものでした。リーダー犬のリキがシャチと戦い命を落とすシーンには涙したものです。
さて、時代は変わって最近ディズニーが南極物語をリメイクしました。さすがは我らがディ
ズニー、13頭もの犬を殺す事なんてできない。なんと15匹の犬は南極で放置されて1年経っても14頭が生き残っていて最後も明るいハッピーエンドに。これって南極物語と呼んでいいものなのか?と不思議な気分でした。
先日知人の子供と話していたら、お肉とはスーパーのショーケースにパックに入って並んで
いる物で、その元の形は知らないと言っていました。お昼のお弁当のナゲットが何からできているか彼女は知らないで食べている。これまた不思議な現象です。
「動物愛護」という言葉が普通に口にされるようになって久しいです。今回の地震災害でも被災地のペットに関するニュースは実に多く、これまでに被災地のペットに対する寄付金だけでも3億円を超えています。日本人のペットに対する意識はだいぶ変わってきたと言えるのでしょう。反面、動物愛護という言葉が当たり前になるにつれ、人間が本来もっている動物への理不尽さ、人間が生きるために恒常的に行われている動物への処遇は裏に隠されて全てを「キレイゴト」で終わらせる風潮が高まっているのも事実。そしてそれがまた新たな問題を孕んで来ています。
そもそも動愛法がどういう経緯でココまで来たかを忘れてはいけません。1997年に世間を騒がせた酒鬼薔薇事件(神戸連続児童殺傷事件)をきっかけにこの法律は厳しくなりました。あの時しっかりした動愛法があれば、犯人をもっと早く止める事が出来たはず、と議論された歴史は重要です。
愛護の精神を声高に叫び続ける以上、今夜食べるステーキやチキンの元の形に想いを馳せてもバチはあたりません。命には残酷さがつきまとう、だからこそ「感謝」が必要になる。その感性とバランス感覚を養うのはとても大切な事だと思います。
自宅の庭で飼っていた鶏を夕飯のために絞める、という情景を知っている子供には、パック入りの肉しか知らない子供とは比べ物にならない実感として、命の重みが残ります。
動物愛護とはポリシーやスタイルやファッションではなく、人間が生きて行く上での必要最低限の倫理観、感謝の気持ちなんじゃないか。簡単に答えの出る様な問題じゃないけど、だからこそそれをまず自分なりに考えてみる事が大切なんじゃないか。
韓国の犬鍋に眉をひそめる日本人は、クジラを食べて欧米から非難され、欧州ではヴェジタリアンがスポーツと称してキツネ狩りをする。愛犬がクシャミをしただけで大騒ぎする奥さんも、ウチの子はこれが大好きなのよと馬肉ジャーキーを犬のオヤツにしている。日本で声高に動物愛護が語られるのは、なぜかいつも選挙前である。この世界の矛盾に答えはありません。
さて貴方の昨夜のディナーはなんでしたか?